大判例

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札幌高等裁判所 昭和49年(う)206号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を罰金二万五、〇〇〇円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金一、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

原審および当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

〈前略〉

第一弁護人の控訴趣意中訴訟手続の法令違反の主張について。

所論は、原審は弁護人側でした上田亨および辻亨に対する各証人尋問の請求を立証事項を限定したうえで採用し、同じく小関隆祺、佐々木忠、佐々木瞬一および小野拓美に対する各証人尋問の請求を却下し、また、この各採否の決定に対する異議申立をも棄却したが、右の証拠決定および異議申立棄却決定はいずれも憲法三七条二項、刑事訴訟法一条、二九八条等の法令に違反し、かつそれ故に被告人が本件傷害事実につき有罪とされるにいたつたと考えられるので、原審の訴訟手続には判決に影響を及ぼすことの明らかな法令違反がある、というのである。

そこで、一件記録を調査してみると、原審弁護人四名は公判期日外の昭和四九年二月二一日、書面により所論の上田亨ら六名ににつき証人尋問の請求をしたが、原審は同月二五日の第一六回公判において、証人上田亨および同辻亨に対する各尋問請求を弁護人らの申し出た立証事項の一部に限定して採用し、その余の立証事項についてはこれを却下するとともに、この採否の決定に対する弁護人の異議申立を棄却し、さらに、同年三月一二日の第一七回公判において証人小関隆祺、同佐々木忠および同佐々木瞬一に対する各尋問請求を、同月二二日の第一八回公判において証人小野拓美に対する尋問請求をそれぞれ却下し、各却下決定に対しその都度弁護人のした異議申立をも棄却したことなどが明らかである。

しかしながら、憲法三七条二項は所論にもかかわらず、被告人側の請求にかかる証人のすべてを請求にかかる立証事項のすべてにわたつて取調べるべき義務を公判裁判所に課したものではなく、刑事訴訟法、刑事訴訟規則等の関係法令中にも、所論指摘の法条を含め、右のような証拠調を行なうことを公判裁判所に義務づけているとみられる規定はなく、いかなる証人をいかなる立証事項において取調べるかは、公判裁判所の適切な裁量に委ねられていると解されるところ、原審のした前記各証人尋問に関する採否の決定が公判裁判所の有する右裁量権の範囲を逸脱したとすべき、格別の根拠も認められないので、右の各採否決定に違法はなく、したがつてまた、原審がこれに対する異議申立を棄却したのも正当として是認することができる。

してみると、原審の訴訟手続には所論のような判決に影響を及ぼすことの明らかな法令違反はなく、論旨は理由がない。

第二弁護人の控訴趣意中事実誤認の主張について。

所論は、要するに、原判決は被告人が三浦淳平の顔面を殴打して同人に傷害を負わせた旨認定し、被告人を有罪としているが、本件は大学側職員らによるでつち上げ事件で、被告人が右のような暴行を行なつたことはなく、原判決の認定は証拠の評価を誤つたため事実を誤認したものであつて、これが判決に影響を及ぼすことも明らかである、というのである。

しかしながら、原判決挙示の関係証拠を総合すれば、被告人にかかる原判示傷害事実は優に肯認することができ、一件記録および当審における事実取調の結果を精査しても、原判決のした事実の認定に所論のような事実の誤認があるとは考えられない。以下、所論にかんがみ、さらに検討を加える。

(一)  被告人が三浦淳平に対し原判示の暴行に及んだ事実については、これに符合する原審第三回ないし第五回公判調書中の証人三浦淳平の各供述部分(以下、単に証言ないし供述として引用し、他の原審証人の供述等についても同様適宜省略して引用する。)および同西守功の原審第六回公判における供述があり、原判決はこれらの供述を措信すべきものとして事実認定の基礎に採用しているところ、所論はこの判断が誤りであつて、右の各供述には信用性がない旨を強調する。

しかし、右の各供述はいずれも公開の法廷で真摯かつ具体的に行なわれ、きびいし反尋対問による吟味を経ているものであり、さらに、所論にかんがみ特に被告人側の防禦権を配慮して念のため三浦および西守を当審公判廷に再喚問した際にも、右両名はいずれも原審における供述を維持する趣旨を重ねて証言してもいる(弁護人は当審における事実取調後の弁論中で、右両名の証言態度が自信のなさを示すものであつたとの趣旨をいうけれども、両名はいずれもそれなりに記憶のかぎりで誠実に応答しているとうかがわれるのであつて、弁護人の主張が理由のあるものとは思われない。)。そして、次項以下で詳述するとおり、右の各供述内容を関係証拠と対比検討しても、部分的に不正確ないしあいまいな個所があるにせよ、三浦らがことさら虚偽を述べるなど、全面的にその信用性を疑わせるに足りる証跡は見出しがたく、右各供述の大綱は優に措信するに足りるものと認められる。

(二)  三浦および西守の各供述の前後には、所論も指摘するように若干の変動がある。三浦は原審公判において、同人は当日午後三時四〇分か四五分頃原判示事務局庁舎二階西側階段の三階への昇り口付近の廊下で、他の職員とともに、三階へ上がろうとする学生に対しこれを止めさせるため説得、阻止等をしていた際、被告人が前方にいた竹島誉俊の肩を後方からつかんで振り回したのを見たが、その直後、自分の方に向きを変えた被告人から右手拳で顔面を殴られた旨供述し、三浦は昭和四七年六月三〇日行われた検察官の取調に際し、また、当審公判においても同旨の供述をしているが、三浦の司法警察員佐藤信清に対する同月一五日付供述調書をみると、三浦は学生らが三階に上がるのを他の職員と制止していた際、被告人が前側の職員を押し分けて三階に上がろうとしたので、被告人に対し「やめろ。」と制止すると、被告人が殴つて来た旨、三浦の司法警察員佐々木幸に対する同月一九日付供述調書には、三浦は学生らを三階に上げないように他の職員と制止線を張り、押しかけた学生らと押し合いの状態となつていたとき、被告人と向い合うかたちとなり、「帰りなさい。」と警告等をすると、被告人が殴つて来た旨の各供述記載がある。

また、西守の原審公判における供述によれば、同人は当日午後三時四五分頃前記階段付近で学生らに対する制止活動に従事していた際、右階段を上がつて行こうとする被告人を引き戻し、さらに他の学生の制止に向い、たまたま後を振り向いたとき被告人が三浦を殴るのを目撃し、すぐに被告人を後からつかまえた、というのであり、西守は当審公判においてもこれを維持する供述をしているが、同人の司法警察員遊佐雄幸に対する昭和四七年六月一五日付供述調書には、西守は三浦やその他の職員とともに二階に上がつて来る学生らを押し戻していた際、一度下に押し戻されて再び上ろうとした学生を三浦が止め、自分もその学生を後から押さえて下に戻そうとすると、のちに被告人とわかつたその学生が三浦を殴つた旨の記載がある。

すなわち、三浦の原審供述等においては、同人は被告人から殴られる直前、竹島が被告人に振り回されるのを見ているとされているのに対し、三浦の警察段階の供述では、そのような状況が述べられておらず、また、西守の原審供述等においては、同人は被告人が三浦を殴るのを目撃するわずか前、被告人を引き戻しているが、右の目撃時には被告人に手をかけていないと述べているのに、西守の警察段階の供述では、同人は被告人が三浦を殴つたとき被告人を後から押えていたとされている。

たしかに、これらの差異は容易に看取でき、かつ、被告人の殴打行為についての供述と相当密接な関係にある部分にかかわるものである。しかし、人の記憶に関する供述は一般に知覚、記銘、保持、再生、表現等の各過程で、あるいはこの間の相互の絡み合いで、過誤や脱落の生ずるのを避けがたく、ことに、事実関係を十分把握していない取調官が供述を録取する場合には、記憶の再生や表現に多くの困難がともなうことは否定しがたいところである。三浦および西守は本件当時、職員や学生らが入り乱れて刻々変る状勢のうちで学生らの制止にあたつていたものであつて、自他のありふれた個々的行為までは鮮明な印象ないし十分な記銘を残しにくい状況下にあつたことが明らかであるから、三浦らは、被告人の殴打およびこれに引続く異常な事態についてはともかく、直前とはいえ、そのようなことの予期されない時期における出来事については、当初よく回想できず混乱したままの記憶を述べ、その後次第に記憶を整理して来て、確実な事実を順序だてて供述するようになつたとみることも十分可能であり、前記の供述の差異もこうした観点から特に不自然、不合理であるとは思われない。三浦は原審当審の各公判において、竹島の件は警察段階では尋ねられなかつたので話さなかつたのであろうと述べ、西守は当審において、警察段階でも記憶にしたがつて供述したつもりで、供述が変つたとすれば記憶が変つたからではないか、と述べている。これらの弁明が三浦らの前記各供述の差異を説明し尽しているとは思われないけれども、問題の各供述内容の精粗や表現方法等を比較検討し、取調警察官がいずれも異なることにも徴すると、三浦らの右弁明は一概に排斥できないものを含んでいると考えられる。

そして、本件直前の状況についての三浦および西守の原審各供述は、検察官、弁護人の詳細な尋問に対し確信をもつて断言し、かつ十分な具体性をそなえたものであり、三浦らは当審証人としても同旨の供述をしていること、三浦らの捜査時以降における一連の供述は、前記の差異を除けば、被告人の殴打状況を含め主要な経緯に関するかぎりほぼ一貫して変遷もないことなどにもかんがみると、三浦らが警察段階でした前記各供述は容易に措信しがたく、したがつて、右各供述の存在が同人らの原審各供述の信用性に致命的な影響を及ぼすことはないということができる。

なお、三浦および西守の各供述には各自の前後関係において、さらには相互の間において、同人らその他の関係者の位置関係等、いくつかの点で多少の異同が見当るが、これらはほとんど厳密な記憶を期待できないか、表現技術の問題に帰せられるような事柄に属し、いずれも三浦らの原審各供述の信用性を左右するに足りないと考えられる。

(三)  所論は、原審証人竹島誉俊の各供述は措信できず、同人が被告人によつて振り回されたことはないというべきであり、仮りにそのような振り回し行為があつたとしても、同人の原審第四回公判での供述によれば、竹島が振り回されるときいた位置は、前記庁舎西側二階廊下から一階に下がる階段へ通じる二メートル余の通路の階段寄りの個所(原審検証調書添付見取図(四)の⑤地点)であつて、その位置は三浦のいた場所から見通すことが困難であつたと認められるから、三浦の原審供述中竹島が振り回されるのを見たとの部分は、以上とそごしてとうてい措信できず、このことは、三浦が被告人から殴られたとする供述部分に信用性のないことを示すものである、という。

しかしながら、竹島が被告人に振り回されたことは、竹島が本件当日の司法巡査による取調以降、検察官の取調、原審における第四回、第一〇回各公判および公判期日外の証人尋問、さらには当審公判を通じ、一貫して供述し続けているところであり、場所の点についてはつぎに述べるとおりであるほか、この供述の真否を疑わせるような的確な証拠は見当らない(被告人は原審当審の各公判において、これを否定する趣旨の供述をしているが、内容自体具体性に乏しく、その前後の状況についての供述が関係証拠上認めがたいものでもあつて、被告人の右供述は措信しがたい。)。そして、三浦の前記原審供述にも徴すれば、被告人が竹島を振り回した事実はこれを肯認してよいと考えられる。

ところで、竹島は原審第四回公判において、被告人に振り回されたときの位置について所論のような供述もしている。だが、この竹島の供述の経緯をみると、同人は検察官の主尋問においては、右の位置が階段手すりの廊下寄りの末端付近である趣旨を、示された図面に図示して供述していたのに、弁護人の反対尋問において、その図面では一階に下がる階段が廊下からすぐに始まつているように表示されているのが誤りであつて、前記のように廊下と階段の間に通路があることを認識させられたうえ、検察官の尋問に際して、振り回された位置を一階からの階段を昇り切つた所であるとも述べていたことを衝かれたため、あいまいながらその位置を所論のように変える趣旨を述べるにいたつたのである。これに加えて、竹島は振り回し事実についての尋問の始めから右の図面を見せられていたこと、その図面は廊下、階段、部屋の配置等をごく大まかに表示したものであつて、そのうちには右のような正確さを欠く部分が含まれていたこと、同人は被告人に振り回されたときいた位置のみならず、振り回されて行つた先の位置や、その直後被告人が三浦を殴るのを見た際の被告人および三浦の位置をも記入したこと、右の廊下や階段の付近はかなり狭い場所で、位置を知る手がかりは一階に下がる階段だけに限られないことなどからすると、竹島が右の階段によつて振り回されたときの位置を特定できるかのように述べたのは、示された図面の表示にとらわれた説明不足のものであることが容易にうかがわれ、弁護人の追求下でした供述の変更はその基礎を欠くものであつたといわなければならない。同人の原審第四回公判における供述を全体としてみるならば、同人の振り回された位置についての記憶は、検察官の主尋問および再主尋問に際し図示し供述しているとおりであつて(記録三四〇、三九九、三九四丁参照。)、その位置を階段手すりの廊下寄りの末端付近とするものであつたと認められる。このことは、竹島自身原審の公判期日外における証人尋問、原審第一〇回公判および当審公判で明らかに確認しているところである。原判決は、同人の原審供述中被告人に振り回された位置に関する供述は措信できないとして、右の供述部分を全面的に排斥しているが、この判断は、前述のような一時の思い違いにもとづく供述の乱れを過大視したものであつて、これに賛同することはできない。

してみれば、竹島の原審供述は三浦の前記供述を裏付けるものであつても、所論のごとくその信用性を否定し去るものではないというべきである。

(四)  こうして、三浦および西守の原審各供述によるならば、被告人は本件当時前記階段を三階に上がろうとしているところを西守に引き戻され、近くにいた竹島を振り回し、再度三階に上がろうとして向きを変えたとき三浦と相対し、同人の顔面を手拳で殴打したという、一続きの経緯として容易に理解できる事実関係が認められ、これは三浦らの各供述が信用できるものであることを示す一事情であるといえるが、さらに、右供述の信用性の点においては、その後の状況がより一層注目されるべきである。

すなわち、三浦、西守、竹島および岩沢健蔵、出光尚敏の原審各供述によると、三浦は「こいつは俺を殴つた。」などと声を発し、ただちに被告人の右手首をつかみ、西守も被告人を後からつかまえ、付近にいた他の職員も協力して廊下西側奥に引き入れたうえ、取り囲み、口から血を流していた三浦が傷口まで示して「何故けがさせたのだ。」というなど、被告人に対し職員の側から激しい詰問があびせられ、名前も問いただされるにいたつたが、被告人はこの職員らの行動を非難することも、近くにいる他の学生に救い等を求めることもせず、職員の詰問にときに反射的な応答をするだけであつて(被告人が三浦に対し「警察に行こう。」などといつたことは認められるが、これも同種のものとうかがわれる。)、言葉のうえでこそ殴打の事実を認めなかつたものの、否定することもしないで、その態度には殴つたことを暗に認めているととられるところがあり(弁護人が当審事実調後の弁論中で言及する、竹島および岩沢の各供述もこの認定の妨げとなるものとは解されない。)、そして、被告人の氏名が確認され、職員らのうちから帰してやるようにいう者が出て来るに及んで、被告人は解放されたことなどが認められる。

被告人は、原審および当審の各公判において、職員らに廊下の奥に連れ込まれたことはあるが、まつたく訳がわからず、そのように応待するうち帰してくれたとの趣旨を供述するけれども、右で掲げた各証拠に加えて、被告人の原審供述では、一人の職員が顔を向けて、ここを殴つたのはお前だという趣旨のことをいい、被告人がその職員の示した口の中を見てみると、血がピンク色ににじんでいた、とされているのに対し、当審供述では、職員らから殴つたということをいわれたことは全くなく、一人の職員に口の中を見せられたが、単にピンク色になつていただけで、血は出ていなかつた、というのであり、また、被告人は原審において、原判決が説示中で引用する「居直るな。」という言葉を職員から聞いた旨明言しているにもかかわらず、当審にいたつて、その言葉に記憶がないと述べるようになつているなど、被告人の供述に明らかな後退が認められること、被告人がつかまえられ、連れ込まれる等した当時、庁舎内は学生の側がはるかに優勢であつて、職員らの手で学生らを規制できる状態になかつたうえ、つかまえられた場所は学生らが寄り集ろうとしていた三階廊下への通り道にあたり、連れ込まれた場所はそこから数メートル程度離れているにすぎず、いずれも学生らが群がつていた右廊下から程遠からぬ位置にあつたことなどに照らし、被告人の右供述はにわかに採用しがたい。

してみると、被告人が三浦を殴つたとされる以後の状況は、その殴打の事実をいう同人らの供述の真実性を支える有力な事情であると考えられる。

(五)  所論は、本件傷害が大学本部職員の手になるでつち上げ事件であると主張する。しかし、職員の側にそのような策謀が行なわれたことを疑うに足りる証拠は発見できない。所論によるならば、三浦、西守、竹島らはでつち上げの策謀に参加していたことになるようであるが、当時三浦は経理部主計課第二予算掛長、西守は庶務部人事課第二給与掛長、竹島は同課第一任用掛員の各役職にあつたもので、その所属、地位、職責等からして、これらの者が危険の多いでつち上げをあえて企て、あるいはこれに加わつたうえ、たがいに事前に協議ないし連絡し合つていたとはそもそも考えがたいし、関係証拠をつぶさに検討してみても、そのような企図、協議、連絡等が具体的にあつたことをうかがわしめる形跡は少しもない。かえつて、三浦らは本件当日における警察官の取調に際し、たがいに口裏を合わせたとはとうてい認めがたい供述をしていることが明らかであつて、この事実はでつち上げなどなかつたことを積極的に示すものでもある。

所論は、本件がでつち上げ事件であることの根拠として、職員の側では学生らの行動を事前に察知してそのための対策をこうじながら、庁舎正面入口のシャッターを下ろさなかつたこと、庁舎内に入つた学生らに対する個別的現認が執ように行なわれたこと、施設部長室にさえカメラを持つた職員が配置されていたこと、機動隊の導入がその必要もないのに敏速になされたこと、原審証人道籏隆が被告人同様本件傷害現場付近で職員らに取り囲まれ、氏名を問われたりしていることなどを指摘する。なるほど、右のシャッターが下ろされなかつたこと、施設部長室内にカメラがあり、そのカメラによつて学生らの状態が撮影されていること、庁舎内の学生を排除するため機動隊が導入されたことなどの事実は認めるにかたくないが、シャッターの点については、学生らが庁舎内に立ち入つた際には三階会議室で大学当局と職員組合との団体交渉が続けられていたため、職員組合との関係からこれを下ろしえなかつたことが認められ(原審証人西間木久郎の供述)、カメラの点については、職員の側においてあらかじめ学長が施設部長室に待避することまで予想して、学生らが押しかける前に計画的にカメラや撮影者を同室内に用意したとするのは、当時の客観的状況上合理的な推測の域をこえることが明らかであり、また、のちに述べるとおり機動隊の導入も必要やむをえない措置として急拠決定されたものと認められる。そして、所論指摘のその余の事実は関係証拠上首肯しがたく(原審証人道籏は所論のいう趣旨の供述をしているが、その供述は内容自体や当時の庁舎内の状勢等に照らしてにわかに措信しがたい。)、結局、所論のあげる論拠はいずれもでつち上げを推認させるものとはいえない。

(六)  その他、所論は三浦ら原審証人の信用性等について種々述べているが、さらに検討を要するほどの論点があるとは思われない。

以上を要するに、三浦および西守の原審各供述には、これを犯罪事実認定の用に供することに妨げとなるような事情は格別認められず、右の各供述は十分信用に値し、これを他の関係証拠と総合考察するときは、原判決の認定摘示する本件傷害の事実は合理的疑いをさしはさむ余地のない程度に証明されているということができ、原判決の認定に所論のような判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認は存しない。論旨は理由がない。

第三検察官の控訴趣意中事実誤認および法令適用の誤りの主張について。

原判決は、本件公訴事実中建造物侵入(不退去)の点について、被告人が他の学生らとともに大学側職員による退去要求を受けながら前記事務局庁舎に滞留した事実を認めたうえ、被告人の右所為はその動機・目的において正当であり、かつ行為態様においてもほぼ相当性の範囲内にあるとして、これに刑法一三〇条後段をもつて処罰しなければならないほどの違法性があるとは断定できない旨摘示し、右の訴因につき被告人に対し無罪の言渡しをしているところ、右の検察官の控訴趣意は、要約するに、原判決の右判断は被告人の行為の動機、目的、態様等、違法性に関する事実を誤認し、さらには刑法の右条項および違法性の有無について法令の解釈適用を誤つたものといわなくてはならず、これらの違法が判決に影響を及ぼすことも明らかである、というのであり、これに対し弁護人らは、原判決の事実認定および法令の解釈適用は基本的には正当であつて、右の控訴趣意は理由がない旨答弁している。

(一)  そこで考えてみるのに、刑法一三〇条にいう「故ナク」との文言は形式的には、同条前段の侵入の罪のみにかかり、同条後段の不退去の罪にかかるものではないと解されるが、他人の建造物等に滞留する場合においても、その行為を違法とまでいえないことが社会生活上少なくないことは、立入りの場合と異ならないので、法文の形式いかんにかかわらず、不退去罪の成否を考えるにあたつては、行為の違法性につき格別慎重な吟味が必要である。そして、建造物等に滞留する行為が不退去罪の構成要件を充足するに足りる違法性があるか否かは、行為者の動機・目的、滞留およびそれにいたる経過・状況、滞留時間と滞留をとくにいたつた事情、管理権者側の滞留に対する意思および態度、建造物等の平穏を害された程度等、当該滞留に関する行為者および相手方の主観客観両面にわたる諸事情を社会観念に照らし具体的に考察して判断しなければならない問題である。

(二)  右の観点から、一件記録および証拠物を精査し、当審における事実取調の結果をもあわせて、本件滞留をめぐる事実関係を検討すると、関係の証拠、すなわち、原判決が無罪理由の項の第二の冒頭に掲げる各証拠ならびに当審証人有江幹男、同島崎正幸および同皆川吉郎の各供述、川上強三作成の「学長団交申し入れ書」の写、小川峻治提出の広報二六号、北海道大学通則および同大学入学者選抜実施要領、押収中の「学びやすく学びがいのある北大の創造を」と題するパンフレット(当庁昭和四九年押第七〇号の六)等を総合すれば、以下の各事実を認めることができる。

1 北海道大学学生自治会連合(以下北大学連という。)は昭和四〇年一二月頃、同大学の学部・付属学校を単位とする、全員加入制の学生自治会の連合体として結成され、本件の昭和四七年六月当時教養部、経済学部、文学部、教育学部、理学部、医学部および医学部付属看護学校の各自治会がこれに加盟していた。もつとも、法学部、農学部、薬学部、工学部、獣医学部、歯学部、水産学部、医学部付属放射線学校等については、自治会そのものがないか、あつても北大学連に加盟せず、全学学生約九、〇〇〇名のうちで北大学連の傘下に入つていた者の数は、五、〇〇〇ないし六、〇〇〇名くらいであつた。

北海道大学寮自治会連合(以下北大寮連または寮連という。)は、同大学の学寮ごとにある入寮生自治会の連合体であるが、各自治会は寮連の決議等に採決権をもち、寮連で決定した事項も各自治会および寮生をただちに拘束するものではなかつた(そのため、昭和四五年二月二七日寮連執行委員長が大学側学生部長と交した新学寮規則の実施に関する確認書は、寮連執行部の努力にもかかわらず、二つの学寮で承認を拒否され、それが現在まで引続くという事態も起きている。)。

被告人は、昭和四四年四月同大学に入学し、終始同大学の学寮で生活し、農学部四年に在学中のもので、前年には同学部学生自治会委員長をしていたが、本件当時は自治活動関係の役職に就いていなかつた。

2 本件の発生した北海道大学事務局庁舎は、同大学構内の南東寄りに位置する、建面積約913.30平方メートル、延面積2,706.85平方メートルの鉄筋コンクリート造三階建の建物であつて、二、三階に各種会議室等があるほか、一階には同大学事務局経理局関係の事務室、二階には学長室、事務局長室、庶務部関係の事務室、三階には施設部関係の事務室等が配置され、同大学本部の事務部門においてもつぱら使用されていた。

同庁舎の管理権は同大学学長丹羽貴知蔵が掌理し、同学長はこれを同大学国有財産取扱規程により同大学事務局長西間木久郎に委任していたこと、大学当局は同庁舎における集団行動を一切禁止し、昭和四六年一一月三〇日以降その旨の掲示文二枚が玄関入口の見易いところに貼られていたことなどは、原判決の摘示するとおりである。

3 また、丹羽学長は昭和四六年一一月五日学生らとの交渉方式等について、北大学連執行委員会等八団体からの公開質問状への回答を公表するかたちをとつて、「全学の教職員、学生の皆さんへ」との表題のパンフレットを全学に配付し、その中で、学生と話合う機会をもつことはきわめて有益であつて、学長の職務は多忙であるが、日程の許すかぎり広くその機会をもつように努力したいとしたうえで、面談が一定の要求事項に対する学長の回答ないし意見を求める場合には、一定のルールに基づいた処理がなされるべきであるとし、要求が学生生活一般に関するものであつて、話合いを求める主体が多くの学部にまたがる学生団体であるようなときには、その処理に直接あたる学生部長ないし学生部委員とまずもつと話合いをもつべきこと、学生部長らにおいて学長との話合いが必要であると判断されるような場合にも、正規の窓口である学生部長を通じてあらかじめ予備折衝を行ない、話合いのテーマ、時間、場所、出席人数等について合意に達しておく必要があることなどを提唱し、以後大学当局はこの線にそつて学生らからの交渉申入れを処理していた。右のうちとくに、学長と直接の交渉をもつには事前に学生部長を通じての予備折衝を経なければならないとする点は、「丹羽ルール」の名で呼ばれるようになり、北大学連、北大寮連らは原判示のようにこれを承認したわけではなかつたが、さりとて無視もせず、交渉を実現するため必要な限度でこれにそつて行動していた。

4 北大学連および北大寮連は昭和四七年四月二四日頃、両執行委員会名義で「学びやすく学びがいのある北大の創造を」と題するパンフレットを学内に配付した。このパンフレットは前書きと本文五章からなる八ページにわたるものであるが、第五章において、大学当局に対する緊急六項目要求として「1 国立大授業料値上げ阻止、当局は反対声明を出し共にたたかおう。」、「2 大学の自治を守り北大の自主的民主的変革を行なおう。」、「3 希望者全員の入れる民主的新寮を建設せよ。」、「4 学生の自治、自主的活動への規制をやめ保障せよ。」、「5 学びがいのある教養部の変革のために全学の責任において抜本的解決を行なえ。」、「6 環境整備や学問、研究、生活施設の設備を行ない住みやすい北大をつくろう。」等を掲げ(なお、右の2ないし6の項目はさらに細分化され、その大要は検察官の控訴趣意書第一、一、4に記載されているとおりである。)、「こうした緊急六項目要求を全学の全てのクラス・サークル・寮で論議してその正当性を全学に認めさせ、全学統一闘争として発展させ、早急に学長、評議会との全学団交の実現めざしてたたかおうではありませんか。」と結んでいた。

同パンフレットは右で明らかなように、組織内外、特に内部に向けての教宣文書であつて、大学側に手交されるようなものではなかつたが、そのうちでは、政府・自民党は国民の立場に立つことなく、独占資本に奉仕する文教政策を遂行し、その結果北大には種々の困難や矛盾が生じて来ているとし、また、北大当局は丹羽学長就任以来学内の反動化を急速かつ全面的に押し進め、大学の自治を破壊し、非民主的な管理運営体制を強めているとするなど、政府の文教政策に対する政治的批判および丹羽学長に対する不信感が繰り返えし強調され、さらに、全学連が緊急五項目要求を掲げて全国学生の統一闘争を進めているおりから、その全国統一闘争に参加すべきであること、前記六項目要求実現のため「四―六月全学統一闘争」を組むことなどが示され、「六項目要求を実現させるためには、“奥の院”に引きこもつている丹羽学長を学生の前に引きずり出して、私たちの正当な要求を認めさせその実現のために具体的措置をとらせることが前提となつています。」とも述べられていた。

5 北大学連および北大寮連は同年五月一一日、連名の「学長団交申し入れ書」なる書面を北大学連書記長の手を通じて学生部に提出し、同月一九日学長が「全学団交」をもつこと、ただちに学生部委員会がそのための予備折衝を行なうことを要求した。右の書面中には、おおむね「1 学長は国立大授業料値上げに反対声明を出せ。2 教養の問題について①マスプロ授業をなくすため、教官の定員を増し、教室を増設せよ。そのための予算を概算要求の上位にランクせよ。②教養部の学生が豊かに学べる最高の施設、設備を整えよ。医務室、ゼミ室等、当面全学の教室、ゼミ室を一定期間解放せよ。③教養部の改革に関して、専門委の改革案作りはすぐさま中止し、改革は学生の意見が充分反映される方法で行なえ。3①廃寮策動を直ちにやめよ。希望者全員の入れる新寮の予算を来年度概算要求の第一にせよ。②サークル予算の打ち切りをやめ、予算を大巾に増額せよ。サークル会館を建設せよ、体育系サークルの遠征費を大巾に援助せよ。4①北大の将来計画、建設計画を公開せよ。②教養部に学生会館を建設せよ。③中央キャンパスに総合的な厚生施設を建設せよ。④スポーツ施設の充実を行なえ。理学部横の広場を野球場にせよ。」との団交事項が列挙されていたが、その趣旨とするところはすべて前記パンフレットの緊急六項目要求のうちに包含されていた。

6 学生部長有江幹男はおりから上京中で、五月一五日になつて学生部内の定例懇談会の席で右の団交申し入れ書に接し、同懇談会および翌一六日の定例学生部委員会にこれをはかつた結果、同月一九日学長が学生側と交渉をもつことは実行不可能であること、予備折衝の問題について協議するため同月三〇日臨時学生部委員会を聞くこと(この開催が遅れたのは、学生部委員が各学部を代表する教官等の相当多人数からなつていて、日程の調整に難航したからであつた。)、それまでの間学生部委員会第一小委員会が学生側との連絡に当ることなどの諒解に達した。そして、右の臨時学生部委員会において、六月一五日午後零時三〇分から学生部庁舎会議室で学生側との予備折衝を開き、学生部長および学生部委員会第一、第二各小委員長がこれに当ることが決定され、ただちに学生側に通知された。

7 学生側は六月一〇日頃、次年度予算の概算要求を決定する定例評議会が同月二一日から同月一七日に繰り上げて開催されることになつたことを知り、また、同月一二日頃には、授業料の値上げを定める文部省令の改正(昭和四七年四月一日同省令一三号)にともなう北海道大学学則の改正がすでに五月一七日評議会の議決を経ていることをも知り、予算の概算要求や学費の値上げが前記の団交要求項目に関連することを理由にして、にわかに活動を活発化した(原判決は、六月一〇日学生側が同月一六日に学長団交に応じてほしいこと等の緊急二項目要求を記載した書面を学生部に提出した旨認定しているが、この認定は当審証人有江幹男の供述に照らして支持しがたい。)。

そして、原判決の摘示するとおり、学生側は六月一三日頃大学構内に、「六・一五全学団交勝利、文部省のかいらい丹羽学長を我々の前に引きずり出せ、六項目要求実現、中教審粉砕、北大学連」と記載した立看板を出し、また、同月一四日午後一時頃三〇名ほどで、丹羽学長が出席して部局長会議が開かれる直前の事務局庁舎二階会議室前の廊下に押しかけ、応待に出た有江学生部長に対し、六・一七評議会での決定を延期すること、六・一六団交に今すぐ応ずること、学則改訂を白紙撤回すること等の要求項目を記載した、北大学連執行委員会名義、丹羽学長あての同日付書面を手交し、さらに、同学生部長をその場に約二時間にわたつて釘づけにしたうえ、右の各項目について同学生部長個人の見解を問いただし、文部大臣に直接学費値上げ反対の声を伝えるためとして、同大臣あての紹介状を書くことを求めたりもした。

8 予備折衝は予定どおり六月一五日午後零時三〇分頃学生部庁舎会議室で、大学側から有江学生部長および前記第一、第二各小委員長、学生側から北大学連執行委員長島崎正幸ら六名が出席して開始され、冒頭同学生部長から、丹羽学長は七月上旬学生側と交渉をもつことを了承しているので、交渉の日時、場所、出席人員等につき話し合いたい旨の発言があつたが、学生側は前日申し出た文部大臣の紹介状の件を繰り返し、あるいは前日示した要求事項について再度見解を問い、いずれについても否定的な意見を述べる同学生部長に対し、その理由を追求するなどし、同学生部長が再三注意を喚記したにもかかわらず、交渉条件の具体的検討に入ろうとせず、午後二時頃になるや突如右島崎が、「学則改定白紙撤回」および紹介状に関する各要求に誠意ある回答をしていないことに対し本日緊急に団交を申し込む旨の、同学生部長あての書面を差し出したうえ、庁舎外にいた五、六十名の学生を同会議室に引き入れた。同学生部長らはこの団交申入れを拒否する旨告げたが、学生らに事実上押し切られ、これに応じたような状態で引続き前と同じような応答を重ねた。そして、学生らの大部分は午後二時五〇分頃、学長との会見に押しかけるためたがいに示し合わせて退室し、その後間もなく、予備折衝はなんら本題について成果をあげることなく終了した。

9 右予備折衝のあつた六月一五日大学当局は原判示のように、学生らが集団で事務局庁舎に押しかけて来るのを予測して、午前中からその対策を協議したりしていたところ、正午前頃数十名の学生が隣接した学生部庁舎前に集合し、その中で「午後二時半までに本部前に集合してください。午後三時に職員組合との交渉が終つた時点で、学長を我々の前に引きずり出して団交しよう。」などとハンド・マイクで演説する者も出て来たため、午後一時頃西間木事務局長の指示にもとづき、事務局職員による庁舎警備の手はずが整えられ、午後二時五〇分頃には職員六、七十名が二手に分かれて正面玄関を入つた廊下の東西に立ちふさがり、学生らの庁舎内侵入を阻止する態勢をとつていた。

10 事務局庁舎付近に集合して来ていた学生らは同日午後二時五〇分頃、丹羽学長と直接会見し交渉を行なう意図のもとに、まず約五〇名がスクラムを組んで四列縦隊で正面玄関から同庁舎内に押し入り、廊下東側につめていた職員らともみ合つたすえこれを実力で打ち破つて、東側階段から二、三階へと進み、他の学生らもこの集団に続き、合計一〇〇名余が庁舎内に立ち入り、同学長の所在を捜し始めた(原判決は、学生らの庁舎内への立入り目的が直接学長と会見をしたうえで六月一六日の学長団交を約束してもらうことにあつた旨認定している。しかし、学生らが丹羽学長と直接会見し交渉をもとうとしていたことまでは明らかに認められるけれども、学生側の教宣活動中では、同学長を学生らの前に引きずり出して要求を貫徹する趣旨が終始強調され、しかも、その日を六月一五日とするものもあつたこと、当日の有江学生部長との交渉は予備折衝という了解で行なわれたものであつたのに、学生側は前記のとおり、途中で同学生部長らの反対を押してこれをいわゆる団交に切り替えたこと、学生らはあらかじめ大学側に目的を告げることなどせず、いきなり集団の力を使つて庁舎内に押し入つたうえ、同学長の所在を県命に捜しながら、大学職員らに目的を明示し、あるいはこれを知らせるような努力をした形跡がないこと等の諸点にかんがみると、指導者らの真の意図はともかく、学生らの多数が同学長から単に翌日の団交約束を取りつけるだけの意思で行動していたとはとうてい認めがたいというべきである。)。

こうして学生らが事務局庁舎に立ち入つて来た際、丹羽学長は同庁舎三階会議室で開かれていた職員組合との団体交渉に出席していたところ、その終了予定時間がせまり、かつ庁舎内の混乱が伝わつて来ていたため、午後三時頃大学側の提案で右団体交渉が打切りとなつて、同三時三〇分からの入学試験委員会に議長として出席する予定で同会議室を出たが、右の事態を知つて急拠三階西側階段横の施設部長室に退避した。

11 学生らは、事務局庁舎各階の事務室等のドアを開けて入り込み、あるいはのぞき込み、「学長はどこだ。」、「学長をつかまえろ。」などと大声をあげて歩き回るなどして、学長の所在を捜し求め、事務局職員が学生らに対し庁舎内から出るよう説得したが、これに応じようとしなかつた。そして、午後三時三〇分頃原判示のとおり、施設部長室前に来ていた学生らが同室の状況に不審を感じ、制止する職員の前に数名の者が立ちはだかるうち、一人が同室ドア上部の欄間から同室の前室に入り込み、内側からドアの施錠をはずして他の学生を右前室に請じ入れ、その学生らが前室の間仕切りの下部から、奥の部屋に学長のいるのを確認するにいたつた。右の学生らは、間仕切りのドアに施錠があつてそれ以上奥へは行けなかつたが、学長の発見を他に知らせたため、各所に散在していた学生らが途中職員の制止を排するなどして、続々と施設部長室前に寄り集つて来た。こうした状態は後述の退去命令の前後を通じて続き、集合した多数の学生らは同室前付近の廊下に坐り込み、その一帯を埋め尽したうえ、歌をうたい、ハンド・マイクを使つて集会を開くことまでした(なお、学生らは右の集会中午後四時前後頃、学長が会見を約束すれば出て行く、学生に対する職員の暴行を謝罪せよ、との二項目の要求を有合せの紙に書き、これをその場に来合せた広田庶務課長に手渡したようであるが、この書面が西間木事務局長ないし丹羽学長に伝達されたとの証跡はない。)。

また、被告人は少なくとも、学生らが施設部長室内に丹羽学長を発見した頃、その学生らの一団の中に姿を見せ、他の学生に欄間を乗りこえる指示を与えたこと、前記第一で延べたとおり、ついで二階西側階段付近に現われ、学生らの制止に当つていた職員を振り回したり、殴打したりしたこと、その後施設部長室前付近の廊下で学生らの集会に加わり、自ら演説もしたことなどが目撃されている。

12 事務局庁舎の警備指揮をしていた西間木事務局長は、午後三時三〇分頃丹羽学長および有江学生部長と電話連絡をとり、情勢次第で警察官の出動要請をする了承を得たうえ、同三時四〇分頃庁舎管理権者として明確な退去命令を出すことに決め、部下の職員に命じて、同三時四五分頃三階西側階段付近の廊下等でハンド・マイクを使つた放送と警告文の掲示の方法により、学生らに対しただちに庁舎内から退去するよう告知し、ハンド・マイクによる放送は二階廊下においても聞くことができた(原判決は、被告人が大学当局から退去要求の出たことを知つたのは、前記傷害行為後三階に戻つてからである趣旨を認定し、これは被告人の原審公判における供述にもとづくものとみられるが、右のような告知がなされた当時被告人は西側階段の二階から三階への間もしくはその付近の廊下等におり、この場所の点からして少なくともマイクの声は十分被告人に達していると優にうかがわれる((原審証人三浦―第三回公判―、同岩沢―同公判―、同竹島―第四回公判―、同出光の各供述参照。))ので、被告人の右供述はにわかに信じがたく、被告人は右の告知が開始されて間もなくこれを知つたと認めることができる。)。しかし、学生らはいつこうに退去命令に応ずる気配をみせず、同事務局長はそのような学生らの状態を知り、加えて、学生らが施設部長室の前室に入つて学長を発見したこと、職員数名が学生側との接触で負傷したこと等の報告も受けるにいたつたため、警察官による学生らの排除もやむなしと決意し、同三時五〇分頃札幌北警察署に警察官の派遣を求めた。

警察機動隊は午後四時一二分頃事務局庁舎付近に到着し、広報車の拡声器を通じて、同庁舎内の学生らに対し三度にわたりただちに退去するよう警告を発し、さらに同四時一七分頃、「これから排除にかかる。これを妨害する者は公務執行妨害罪となる。ただちに退去するよう重ねて警告する。」旨を放送したのち、部隊編成で庁舎内に入つて学生らの排除にかかつたところ、同四時二〇分頃となつて、被告人を含む施設部長室前付近にいた学生らはスクラムを組んで機動隊の規制する中を庁舎外に出て来た。

13 右のように学生らが事務局庁舎内に滞留していた間、同庁舎内は相当騒然とした状況にあつたのみならず、事務局各室では、警備に動員された者がいたほか、居残つていた者も学生らの行動を危ぐして書類等を格納し、あるいは仕事が手につかず、職員の執務はほとんど中絶していた。

丹羽学長は前記のように、学生らによつて施設部長室に閉じ込められた状態となり、その後も学生らが庁舎周辺に残留し気勢をあげていたため、退庁を急がねばならず、前記入試委員会へは出席不可能となつて、同委員会での議長としての職責をはたすことができず、また、有江学生部長および西間木事務局長も同委員会の委員であつたが、本件不祥事の処理に専従しなければならなかつたことから、同委員会には会議終了間際の午後四時三〇分頃ようやく出席できたにとどまり、実質的な審議に参加できなかつた。なお、同委員会は、予定より少し遅れて午後三時四〇分頃から同庁舎二階会議室で開かれ、予定の議事を終了したが、これは、委員の日程が調整しにくかつたため、右三委員の欠席のまま、教養部長が議長を代行し、正規の出入口を閉鎖して隣室の人事課事務室から出入りするようにしたうえで、強行されたものであつた。

(三)  以上の諸事情を基礎にして、本件滞留が不退去罪の成立に必要な程度の違法性をそなえるか否かを考察する。

1 原判決は、本件滞留の動機・目的は学生らが丹羽学長と学内の就学・学習・研究環境条件に関する交渉の実現方を求めていたものであつて、一応正当と認められ、違法であるとは断じえないとする。

学生らが事務局庁舎に滞留した主たる目的が丹羽学長との会見ないし交渉にあつたことは疑いがないところ、学生らが同学長から単に団交約束を取り付けようとしていたにとどまるとは認めがたいことは、すでに述べたとおりであるが、その会見等の趣旨が本来の要求事項に対する交渉そのものであつたのか、そのための予備折衝的なものであつたのかのいずれであるかによつて、ただちに本件行動目的の正当性が左右されることになるとは思われない。

そして、大学内における学生の地位、役割等については、種々の議論が存するにしても、学生が対等の対立当事者の関係に立つて、大学当局に対し大学の管理・運営、学内における研究、勉学および生活の条件等につき交渉を要求することができ、大学当局がこれに応じなければならないとする実定法上の根拠はなく、また、本件当時北海道大学においてそのような慣行ないしは学内与論の一致があつたともうかがわれない(前掲「全学の教職員、学生の皆さんへ」と題するパンフレットの回答1および3、北海道大学改革調査専門委員会作成名義の同大学改革調査報告の第四部、同大学改革検討委員会作成名義の同大学改革検討中間報告のⅢ等参照。)、右のような諸問題について学生が大学当局に対し各種の希望、意見等の申入れを行ない、大学当局が適宜これを聴取し、また、学生と大学当局が任意に協議その他の会合を開くなどして、大学当局がそうした結果を大学の行政面に反映させて行くことは、無用な紛争を防止し、健全かつ円滑な大学運営をはかるうえでまことに好ましいことである。しかし、学生が大学当局に対し作為不作為の約束を求めて行なう交渉ないしそのための予備折衝等は、職員組合のする団体交渉等の場合とは趣を異にし、学生が団結の威力を利用して大学当局と対等の立場で団体交渉権を行使するというような場ではないので、右の交渉等に際して、学生は労働組合法一条二項等にいわゆる刑事免責事由を有するわけではなく、一般市民と同様の法的規制に服すべきものであり、学生の側で交渉等を申し込むにあたつては、対象とする事項に選択を加えることはもとより、交渉等そのものにおいても、またその実現を推進する過程においても、大学当局の定めた手続があればそれをできるかぎり尊重し、穏当な手段や方法をとることが要請されているものというべきである。

本件についてこれをみると、学生側が提出した前記団交申し入れ書および六月一四日付書面各記載の団交要求項目は、見方によれば、そのほとんどが交渉の対象とするに適当でないもの、大学内における長年にわたる懸案であつて即時解決の見込みのないもの、あえて学長と直接交渉をするまでの必要性のないもの等であるともみられ、当時の状況下における学長との交渉事項として適切であつたかは問題があるにせよ、いちおうはすべて大学の管理・運営または学内の諸条件の改善等にかかわるものであるから、この点はしばらくおくとしても、学生側は大学当局の定める予備折衝の手続に一度はのりながら、予備折衝の実を尽さないままに、集団の実力で同学長のいる事務局庁舎に入り、集団の勢威を背景にこれを利用して強いて同学長に会見し交渉することを要求していたのである。そして、本件滞留はこのような経過のうちで、同学長に対する交渉等を実現する手段として意図、実行されたものであつて、その目的とするところは、同学長に対し右の会見、交渉等を強制することにあつたというほかない。

そうしてみると、本件における学生らの一連の行動の動機こそ、北海道大学に関する諸問題の解決を目指すものであつたと認められる(もつとも、これに政治活動または全国的学生運動の一環として触発されたとの形跡がないとはいえない。)けれども、本件滞留の目的は、上述のような学長に対する会見ないし交渉を強いて求めるものとして相当性を欠き、にわかにこれを正当視するわけにはいかない。

2 本件滞留時およびそれにいたる学生らの行動をみると、学生らは前記(二)の10ないし12で詳述したとおり、当日午後二時五〇分頃集団でスクラムを組んで事務局庁舎に立ち入り、玄関内を固めていた職員らの間を実力で突破したうえ、同庁舎内を騒ぎまわり、職員らの説得をきかずに踏みとどまり、施錠のない事務局各室を点検したのみか、施設部長室では、職員の制止を排して欄間からその前室に入り、施錠を開けるなどし、奥の部屋に丹羽学長を発見するや、同学長が外に出られなくなることを十分知りながら、施設部長室の前に仲間を呼び集めて坐り込み、その付近を占拠同然の状態とすると同時に、同学長を同室内に事実上閉じ込め、午後三時四五分頃正式の退去命令が出されても、事態は変らず、学生らは退去命令に従う気配をみせず、被告人において、制止活動に従事中の職員を殴打して負傷させるような所為に及ぶ一方、施設部長室前付近の廊下では、多数の者が依然として坐り込みを続け、あまつさえマイクを使つた集会をも行ない、午後四時二〇分頃機動隊が排除にかかつてようやく庁舎外に退去するにいたつたのである。

こうした状況からすると、退去命令後の滞留が消極的な行動の域にとどまるものではないのはもとより、学生らは退去命令の前後を通じて、目的の実現に向うことのみに急であつて、庁舎内の混乱を最小限度にとどめるような配慮をすることなく、庁舎管理権の存在をないがしろにし、職員らの通常の庁舎使用を故意に妨げ、さらには学長の意思を制圧するような行動等をとつたうえ、どのような見地に立つても許容しえない暴力的行為にも出ているのであり、本件滞留をめぐる学生らの行動には、それにいたる経緯、参加した学生らの心情等がどうであれ、甚しく度を過ぎ法秩序に照らして認めがたいところが少なからずあるといわざるをえない。

たしかに、退去命令後の滞留時間は約三五分間という比較的短いものではあるが、学生らはその以前の約五五分間引続き職員らから任意の退去を説得されながら、これに応じようとせず、退去命令を受けたのちにおいても、機動隊が排除活動を開始して初めて庁舎外に出るにいたつたことなどの事情があり、これらを考慮に容れるならば、右の滞留時間の点はさほど重くみるわけにはいかない。

3 大学側は、数か月以前から事務局庁舎正面玄関内に、同庁舎内での集団行動を禁ずる旨の制札を貼り出していたのみならず、本件に際し学生らの立入りが予想される事態を迎えるや、職員による自衛の態勢を整え、学生らの立入りにあたつてこれを阻止する行動をとり、その後も庁舎内の学生らに対し個々に退去するよう説得を続け、ついには、前記のとおり退去命令を出したうえ警察官の派遣要請をも行なつており、大学側が学生らの滞留を受認したようなことは終始まつたくなく、また、学生らにおいてこの大学側の態度を誤認するような事情も関係証拠上うかがうことができない。

そして、本件滞留によつて生じた結果は前記(二)の13で取りまとめて述べたとおりであつて、学生らが滞留している間事務局庁舎内は喧騒状態にあつたのみならず、その滞留を直接または間接の原因として、事務局各室の執務はほとんど停止され、丹羽学長ら三名は同庁舎内で開かれた入試委員会への出席を妨げられ、同委員会は正常な姿で審議を行ないえなかつたのである。

すなわち、大学側は学生らの滞留を峻拒し続けたのち、明確な退去要求を出すにいたつたのに、滞留はとかれず、その結果、事務局庁舎内の静穏のみにとどまらず、同庁舎内の正常な事務処理まで著しく阻害されたということができる。

4 原判決は右の2および3に関連して、予備折衝が遅れ、学生側が目標としていた、評議会開催前の学長との交渉が無理となつたこと、当日の予備折衝において、学生側のした評議会前の短時間の会見希望ですら大学当局に拒否されたこと、学生側が本件滞留時書面で団交の約束等を求めたのに、学長がこれになんらの回答もしなかつたことなどをあげて、大学当局の姿勢がかたくなで不誠実であつたとし、これが学生側に疑惑や切迫感を呼んで、いきおい対抗的な行動に走らせたのであつて、この間の事情は本件滞留の行為態様における違法性を判断するにあたり重視されるべきであるとしている。

しかし、本件滞留中に学生側から書面が出された事実はうかがわれるけれども、その内容および当時の庁舎内の状況に照らせば、そもそも右の書面に対し大学側において応答を行なうのが相当であつたとは到底いいがたいし、そのうえ、右の書面が大学側の意思決定をできるものの手に渡つていたようには認められず、これを大学側の失態にのみ帰することもできないので、大学側が右の書面に応答しなかつた点をとらえて、日頃の大学側の学生らに対する消極的態度の現われであると極め付けるわけにはいかない。予備折衝が遅れたこと等については、これが大学側のことさらな引延しによるものと疑うに足りる根拠は見当らず、また、予備折衝時における大学側の態度の点については、予備折衝は前記のように学生側が一方的にその進行を支配していたものであつて、そうした際において、学生側が理非を明らかにした切実な要望を提出したのに、大学側がこれに対し学生側をいたずらに刺激するような受け答えをしていたとは容易に考えられない。結局、証拠関係を精査してみても、本件の学生側の交渉申入れから予備折衝、さらには本件滞留にいたるまでの経過中に、原判決のいう非難を相当とするほどの言動等が大学側にあつたとは認めることができない。

たしかに、学生側は丹羽学長が予備折衝の手続をもうけるなど、学生との交渉に消極的で、これを制限しようとしているとみていた折柄、事情がどうであれ、予備折衝が行なわれることになりながらその開催までに一か月余を要し、学生側の予定する日までに学長と交渉することができそうになくなつたことは、事実そのとおりであり、そのため学生側が焦燥感にかられたであろうことも推測するにかたくない。だが、本件の経過を客観的にみるならば、学長と学生側との交渉を学生側の要求するように評議会の開催前に行なうことはきわめて困難であつて、学長がこれを承諾しないことをもつて不当といえるだけの状況は認められないのみならず、一連の学生側の行動は政治的主張や丹羽学長に対する反感を相当露骨に示していたものなので、大学当局が学生側の要求を好意的に取り扱うことを期待するのは、もともと無理なことであり、学生側においても、大学当局の好意など求めず、闘争を通じて要求を勝ち取つて行くという姿勢を持していたことも明らかであることなどからすれば、本件滞留にまで発展した学生側の行動が大学当局の態度に対する単なる心情的な反発のみに基づくものであるとは考えられない。

そうとすると、大学当局の学生側との応接のうちに、学生側の誤解、非難等を招くような点が若干あるにしても、このことの故に前記の2および3で述べたような事態が軽視されてよいとはいえない。

5  以上本件滞留の違法性に関する主要な事情を検討して来たが、学生らの事務局庁舎立入りの目的、立入り時およびその後の行動状況、それによつてもたらされた結果、大学側の対応状況等に照らすと、大学側の発した退去命令は適法かつ相当なものとして十分肯認でき、これを無効視すべきいわれは全くない。そして、右を含めた本件滞留をめぐる諸状況、ことに、本件滞留が実力による庁舎内への立入りに端を発していること、学生らが職員らの制止や説得に従わず、退去命令をも無視し、しかも、その過程において被告人が職員に対して暴力を行使し傷害を負わせるという事態まで惹起していること、施設部長室前での坐り込みが前記のような意味合いにおいて行き過ぎの甚しいものであり、それにより学長の行動の自由が奪われるにいたつたことなどにかんがみれば、本件滞留は単なる営造物利用関係における内部規律違反の域をこえ、社会観念上許容されうる行為の範囲を逸脱したものというべきである。各所で触れた学生らの学長に対する交渉申入れの経緯、これについての学生らの理解、学生らに本件滞留等の一連の行動をとらせるにいたつた契機や動機、その他の事情を調べてみても、右のような本件滞留を正当化するだけの事由があるとは思われない。

このように、本件滞留に関する諸般の状況を総合考察するときは、本件滞留は社会生活において放任されるような態様のものとはとうてい考えられず、刑法一三〇条の予定する不退去にあたるといわざるをえないのであつて、本件滞留が不退去罪の成立に必要な程度の違法性をそなえていることは動かしがたいところであると判断される。

(四)  したがつて、原判決が本件滞留につき不退去罪を構成するだけの違法性がないとしたのは、違法性判断の前提となる事実関係を誤認し、ひいては違法性に関する法令の解釈適用を誤つたものといわなくてはならず、これらの違法が判決に影響を及ぼすべきこともまた明らかである。この点についての検察官の論旨は、結局理由がある。

以上の次第で、原判決中無罪部分に関する検察官の控訴は理由があるところ、本件の数罪は刑法四五条前段の併合罪の関係にあつて、一括処断されるべきものであるから、検察官のその余の論旨(量刑不当の主張)に対する判断を省略したうえ、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条、三八〇条により、有罪部分を含めて原判決全部を破棄し、さらに、同法四〇〇条但書を適用して、当裁判所においてただちにつぎのとおり自判する。

(罪となるべき事実)

原判決が確定した「罪となるべき事実」を「第一」として引用するほか、つぎの事実を付加する。

第二  被告人は、昭和四七年六月一五日午後三時四五分頃札幌市北区北九条西五丁目所在の、北海道大学学長丹羽貴知蔵の委任により同大学事務局長西間木久郎の管理にかかる同大学事務局庁舎内に、約一〇〇名の学生とともに立ち入つていた際、右事務局長の命を受けた同大学職員らから、すみやかに同庁舎外に退去するよう要求を受けたにもかかわらず、右多数の学生らと共謀のうえ、同日午後四時二〇分頃まで滞留を続けて同庁舎から退去しなかつたものである。

(証拠の標目)〈略〉

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は刑法二〇四条、昭和四七年法律第六一号による改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号(刑法六条、一〇条による新旧比照。)に、第二の所為は刑法一三〇条後段、右の罰金等臨時措置法の条項にそれぞれ該当するところ、すでに述べた本件各犯行の経緯、態様、結果およびその罪質等を総合勘案し、被告人の身上等をもあわせ考慮したうえ、所定刑中いずれも罰金刑を選択し、右の二罪は刑法四五条前段の併合罪であるから、同法四八条二項により右罰金の合算額以下において、被告人を罰金二万五、〇〇〇円に処する。なお、被告人において右罰金を完納することができないときは、刑法一八条により、金一、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置し、原審および当審における訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文によりその全部を被告人に負担させることとする。

以上の理由によつて、主文のとおり判決をする。

(粕谷俊治 横田安弘 宮嶋英世)

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